
「ねぇ、私……もしかして、身篭ったのかもしれない」そう打ち明けられた瞬間、その言葉のやさしさと重みに、私は思わず黙ってしまいました。
「妊娠した」ではなく「身篭った」。
それだけで、まるで命が静かに降りてきたような、神聖であたたかい空気が流れたような気がしたんです。
現代では、妊娠は検査薬やエコーなどで正確に判断され、医学的な管理がとても大切にされています。
もちろんそれは命を守るために欠かせないこと。
でも、その一方で、まだ誰にも話していない気持ちや、変化しはじめた自分の身体にそっと耳を澄ませたくなる瞬間もありますよね。
そんなとき、「身篭る」という言葉は、ただの状態ではなく、心で命を迎える準備をしている“自分自身の姿勢”を映し出してくれるように感じます。
この言葉が、あなたの心にふわっと寄り添ってくれますように。
「身篭る」ってどんな意味?辞書には載らない心の奥の実感
「身篭る」は、単なる状態を超えた“感覚”の言葉
「身篭る」という言葉を初めて耳にしたとき、そのやさしい響きに、私はふっと胸が温かくなるのを感じました。
漢字では「身籠る」や「身篭る」と書き、「妊娠すること」を意味する表現ではありますが、そこに込められたニュアンスは、ただの医学的な事実や身体の変化を説明する言葉とは少し違う気がするのです。
この言葉には、「命が宿ったかもしれない」という、まだはっきりとは確認されていないけれど、心の奥で確かに芽生えた感覚をやさしく包むような力があります。
妊娠を「知る」前に、妊娠を「感じる」。
その微細な心の動きを丁寧に表現するには、「妊娠しました」という言葉よりも、「身篭ったのかもしれない」のほうが、しっくりくる瞬間があるのではないでしょうか。
漢字にこめられた、守りと包みのイメージ
「身篭る」という表現の語源には、「身に籠もる=内に大切なものを宿す」という意味が込められています。
「籠」という字は、もともと“鳥かご”や“竹かご”のように、大切なものを守るための入れ物として使われてきました。
それが身体と重なることで、「母の体の中に小さな命が大切に守られている」というイメージが自然と浮かび上がります。
私はこの語源を知ったとき、ただの言葉ではなく、命と向き合う“まなざし”がそこにあるような気がして、思わずじんとしました。
赤ちゃんがまだ見えなくても、心や体のどこかで感じ取っている“存在の気配”を表すには、この上なくぴったりの言葉だと思います。
数字ではなく、心で実感するもの
現代の医療では「妊娠○週」や「胎嚢確認」「心拍確認」など、妊娠を具体的に数字で管理できる時代になりました。
それによって多くの命が守られるようになったのは本当に素晴らしいことですし、大切な命と自分の体を守るために必要な判断や診察は、きちんと医療機関の手で行うべきものです。
ただ、その正確さとは別に、
「なんとなく、お腹の奥にあたたかい何かがいる気がする」
「普段と違う感覚がある気がする」
といった、自分だけが感じる微かな感覚を抱いたとき、それを表すには「妊娠」という言葉よりも「身篭る」という言葉の方が、しっくりくることがあるんです。
診断の前に、言葉がくれる心の整理
「妊娠しているかどうかは、病院で診てもらうまではっきりしないから」
「思い込みだったらどうしよう」
と、自分の中で何かが起きている気がしても、それをすぐに口にするのが怖くなることってありますよね。
私はそうでした。
「妊娠したかも」と言うのがまだこわかった。
でも、自分にだけそっと「身篭ったのかもしれない」と言ってみたとき、少しだけ心が落ち着いたのを覚えています。
言葉は、確かな証拠を与えてくれるものではないけれど、心を整えてくれる道しるべになることがあります。
「身篭る」という言葉は、その最初の一歩にちょうどいいのかもしれません。
昔の妊娠は“感じ取るもの”だった
検査もエコーもない時代、命は「兆し」で知った
今のように妊娠検査薬やアプリがなかった時代、妊娠は「感じる」ものでした。
「体がだるいな」「ちょっと熱っぽいかも」「月経がこない」そんなささいな変化を、女性たちは敏感に受け止めていたのだと思います。
私の祖母は「お腹がぽかぽかして、なんとなく違うのよね。
あの感覚は今でも忘れられないの」と話してくれました。
医学的な数値や診断がなくても、自分の身体の奥に起きている変化を、静かに、でもしっかりと受け止めていた。
その姿に、私は思わず背筋が伸びるような気持ちになりました。
「妊娠した」ではなく「授かったかもしれない」
当時の人々にとって、妊娠とは誰かに証明されるものではなく、自分自身が「信じる」ものだったのかもしれません。
「お腹に赤ちゃんがいる気がする」「宿ったんじゃないかと思ってる」そんなふうに、確信よりも実感を大切にしていたように思います。
その背景には、命というものが科学ではなく“神様や自然のめぐりあわせ”として受け止められていた文化的な土壌もあったのかもしれません。
「身篭る」という言葉が生きていた理由
こうした感覚的な妊娠の受け止め方において、「妊娠○週」という明確な言葉ではなく「身篭る」というやわらかな言葉が使われていたのはとても自然なことだったのでしょう。
確定されていないけれど、確かにそこにある気配を言葉にするためには、「身篭る」という表現がぴったりだった。
言葉が人の気持ちに沿って選ばれていた時代だからこそ、生まれた表現なのかもしれません。
今の私たちにとって「身篭る」はどんな言葉?
科学的な安心と、心の実感のすれ違い
現代の妊娠は、とても“確か”であることが求められる時代です。
妊娠検査薬は数日単位で結果が出るし、病院では胎嚢や心拍の有無を確認しながら、週数や予定日まできちんと伝えてもらえます。
それは母子の安全を守るうえで本当に大切で、私も妊娠初期には何度も病院でチェックを受けて、その度に安心をもらいました。
でもその一方で、「数字では理解しているけれど、まだ心が追いつかない」という感覚も、正直ありました。
確かにエコーには映っている。
医師からも「妊娠してますね」と告げられた。
でも「自分の中に命がいる」という事実が、どうしても実感としてまだ降りてこない。
そんなふうに、頭と心がズレているような不思議な感覚に包まれたのです。
「妊娠です」より「身篭ったかも」のほうがしっくりくるとき
そのズレを埋めてくれたのが、「身篭る」という言葉でした。
「妊娠」という表現が正確で頼もしいものであるのに対して、「身篭る」はもう少し曖昧で、でもその曖昧さが逆に心に寄り添ってくれる感じがするんです。
私は、まだ誰にも話していなかった頃、自分の心の中で「もしかしたら、身篭ったのかもしれない」とそっとつぶやいたことがあります。
その瞬間、なんだか涙が出そうになったのを覚えています。
それまでずっと「まだわからない」「確定じゃない」と思っていたのに、その一言が自分の中の不安や緊張をふわっとほぐしてくれたんです。
診断のためじゃなく、自分の気持ちを整えるために
「身篭る」は、誰かに伝えるための正確な報告ではなく、自分自身の気持ちを整えるための、やさしい言葉なんじゃないかと思います。
外側から与えられた診断の言葉ではなく、自分の心で感じたことを、自分の言葉で受け止めるために。
この言葉を使うことは、決して逃げでも曖昧でもなくて、「まだ揺れている心を大切にする選択」なんだと思います。
「身篭る」は誰にでも使える?使い方の注意点
やさしい言葉だからこそ、届け方には思いやりを
「身篭る」は、とてもあたたかくて、誰かの心をふんわり包むような響きを持った言葉です。
けれどその一方で、妊娠にまつわる言葉というのは、使い方を間違えると相手の心にちくっと刺さってしまうこともあるんですよね。
特に妊娠の経過が不安定だったり、これまでに辛い経験があった方に対しては、どんなに優しい言葉でも、使うタイミングや距離感には慎重になる必要があります。
言葉の選び方一つで、誰かの気持ちにそっと寄り添えることもあれば、無意識に傷つけてしまうこともある。
だからこそ、この言葉の“やさしさ”を本物にするには、丁寧さと思いやりが何より大事だと思うんです。
親しい人とのやりとりに、そっと添える一言として
私がこの言葉を実際に使ったのは、妹から妊娠の報告を受けたときでした。
「赤ちゃんができたの」と言われたときに、「おめでとう!」だけじゃなくて、「身篭ったんだね」と返したんです。
すると、妹は少し驚いた顔をして、「なんだか、その言い方、あたたかくて好き」と笑ってくれました。
ふだんは照れくさくて口にしないような感情も、「身篭る」というやさしい言葉の力を借りたら、ちゃんと伝えられた気がしたんですよね。
こうやって心の深い部分にふれるような会話ができるのは、本当に親しい関係だからこそだと思います。
フォーマルな場面や手続きでは使い分けを意識して
ただし、すべての場面で「身篭る」が適しているわけではありません。
たとえば職場への報告や、公的な手続きで産休を申請するようなときには、「妊娠しました」という表現のほうが適切で、誤解も生まれにくいですよね。
この場合はやさしさよりも正確さが求められる場面なので、しっかり使い分けていくことが大切です。
「身篭る」はあくまでも心の通った会話の中で、自分の気持ちや相手への思いやりを伝えるための、ちょっと特別な表現だと思っておくと安心です。
診断前の予測として使うのは避けたい
もうひとつ大切なのが、本人がまだ妊娠を確認していない段階で、周囲が「もう身篭ってるんじゃない?」と軽く口にしてしまうケースです。
こうした言葉は、意図せずプレッシャーになったり、不安を煽ってしまったりする可能性があります。
もしその後に妊娠でなかったとわかったとき、その言葉が心のどこかでずっと引っかかってしまうこともあります。
だからこそ、「感じているのは本人の心と体」であるという前提を大切にして、先回りして言葉を投げないようにすることも、やさしさの一部なのかもしれません。
いちばん大切なのは、「自分に向けて使う」時間
そして、私が個人的にいちばん好きな使い方は、「誰かに伝えるため」ではなく「自分自身の心に向かって」そっと使う方法です。
体の中に何かが起きている気がする、不思議と胸があたたかい、いつもと違う感覚がある。
そんな曖昧で、でも確かな心の揺らぎに、「私は今、身篭っているのかもしれない」と語りかけてみると、不思議と心が落ち着く瞬間があります。
それは、まだ不安の中にいる自分を、ひとつの言葉がやさしく支えてくれるような感覚です。
外に向ける言葉としてよりも、まずは内側の自分を大事にする言葉として、この「身篭る」という表現がそっと寄り添ってくれる気がするのです。
「身篭る」と向き合う、自分だけの物語を大切に
妊娠は、身体の変化だけじゃなく“心の旅”のはじまり
妊娠と聞くと、どうしても「体の変化」や「赤ちゃんができた」という現実的な側面が強調されがちだけれど、本当はそれだけじゃないと思うんです。
妊娠を知る前から、心には小さな揺れが起きていて、「もしかして?」という予感や、「これから何かが始まる気がする」という静かな気づきがあったりしますよね。
その感覚は誰かに説明するのがとても難しくて、でもたしかにそこに存在している。
私はそれを、「心の中で命の部屋をそっと整えている時間」と呼びたくなるんです。
私の中で「妊娠」が「身篭る」になった瞬間
私が「妊娠」という事実を“体で知った”のは、病院でエコーを見たとき。
でも「身篭った」という実感が芽生えたのは、それよりもずっと前の、静かな夜でした。
なんだかお腹の奥がぽかぽかして、気持ちがふわふわして、誰にもまだ言っていないけど、心が勝手に何かを感じ取っていたんです。
そのとき私は自分に向かって、「ああ、今、私、命を抱いてるんだ」と言葉にしました。
その言葉は涙になって、静かにこぼれました。
誰かに認められなくても、まだ確証がなくても、自分の中で生まれた感覚を信じたくなる。
そんな瞬間こそが、「身篭る」という言葉の本当の意味なのかもしれません。
数字や医学じゃ測れない、自分だけのストーリー
妊娠が確定するまでの間って、不安と希望が交互に押し寄せてきますよね。
「検査薬はまだ早いかな」「生理が遅れてるけど、ただのストレスかも」「誰かに言うのはまだ怖いな」そんなふうに、毎日心の中で何度も自分と対話していたあの期間。
それは誰かに説明するための“妊娠何週”じゃ語れない、完全に自分だけの物語でした。
そういうとき、「身篭る」という言葉は、“未完成の感情”をそっと包んでくれるように感じるんです。
「わからないけど、でも、感じてる」という曖昧さを、否定せずに受け止めてくれる。
誰かに言わなくてもいい、自分の中だけで育てている確かな感覚。
その物語に、正しさなんて必要ないのだと思います。
命と自分の心が重なり合う、そのかけがえのなさ
「身篭る」という言葉には、命の重さと同時に、心のやわらかさが込められています。
それは妊娠という変化を、ただの“状態”としてではなく、“関係性”として受け止めているからかもしれません。
「私の中にもうひとつの命がある」その事実が、自分の生き方や感じ方さえも、少しずつ変えていく。
妊娠はスタートじゃなくて、もうすでに「物語の途中」なんだと、この言葉は教えてくれます。
「妊娠」と「身篭る」は同じ?言葉の温度で伝わることの違い
どちらも命を伝える言葉、でも感じる空気はちがう
「妊娠しました」と「身篭りました」。
どちらも、命を宿したことを伝える言葉だけれど、口にしたときの“空気感”って、全然違うんですよね。
「妊娠」という言葉は、どこか明快で、状況をはっきり伝えるための言葉。
病院で診断されたときや、職場や書類に記載する必要があるときなどに、とても頼りになる存在です。
でも一方で、「身篭る」はもっと感覚的で、心がじんわりと反応するような、やわらかい温度を持っている。
どちらが正しいということではなく、それぞれの言葉が持つ“伝え方のちがい”があるんです。
「妊娠」は事実を伝える、“外に向けた”言葉
私が初めて「妊娠しています」と口にしたのは、母子手帳をもらったときでした。
助産師さんに「妊娠おめでとうございます」と言われて、「あ、私は妊娠したんだ」とはっきり自覚できた瞬間。
でもそれはどこか、「これから始まる手続きのスタートラインに立ったような感じ」で、感情よりも現実を受け止める感じが強かったのを覚えています。
「妊娠」は、誰かに伝えるときにとても便利で、正確に伝わる安心感のある言葉です。
「身篭る」は心で感じて、内に向かって語る言葉
それに対して、「身篭る」と言ったときの感覚は全然違っていました。
私がこの言葉を最初に使ったのは、誰かに伝えるためではなく、自分自身に向けてでした。
まだ検査薬の反応もなかったけれど、なんとなく身体の奥で変化を感じていて、「これは命がきてくれた気がする」と思ったんです。
そのときふと、「身篭ったのかもしれない」と心の中でつぶやいたとき、不思議と涙が出てきたんです。
それまで“未確定な状態”として扱っていたこの変化が、やっと“自分ごと”としてつながった瞬間でした。
伝えたい内容によって、言葉を選ぶということ
「妊娠」と「身篭る」は、どちらも間違いではないし、どちらも命を大切に伝える言葉。
でも、伝えたい相手やそのときの気持ちによって、言葉の“温度”を選びたいと私は思います。
たとえば、病院で医師に伝えるなら「妊娠しています」が自然。
でも、大切な友人にぽつりと伝えたいときは、「赤ちゃんが来てくれたみたいでね」「いま、身篭っているかも」と言ったほうが、気持ちがまっすぐ届くこともあります。
言葉の違いは、自分の心を大切にするヒントにもなる
言葉は“伝えるため”のものでもあるけれど、ときには“自分の心を守るため”にも使っていいんですよね。
妊娠したと知って、嬉しさや不安、期待や戸惑い、いろんな感情が入り混じっているとき、「私は今、身篭っているんだ」とやわらかく言葉にしてあげるだけで、気持ちが少し落ち着いたり、未来を静かに思い描けたりする。
そんな“心に寄り添う使い方”ができるのも、「身篭る」という言葉の魅力なんじゃないかなと私は思っています。
妊娠をやさしく伝える、他の言葉たちもある
「妊娠」だけじゃない、心に届く表現がある
妊娠を伝える言葉といえば、真っ先に浮かぶのは「妊娠しました」だと思います。
もちろん、それは正しくて、安心感もあって、多くの場面で使いやすい言葉です。
でも人の気持ちって、いつもそんなに整理されたものじゃないですよね。
嬉しいような、不安なような、まだ夢みたいで口にするのが怖いような、そんな繊細な感情を抱えているときに、「妊娠」という言葉がちょっと硬く感じてしまうこともあるんです。
だからこそ、状況や気持ちに合わせて、“もう少しやわらかくて、感情によりそう言葉”が選べたら、自分の気持ちにも、相手の心にも、もっと優しく届くんじゃないかなと思うのです。
「赤ちゃんが宿る」──静かで神秘的なぬくもり
私が一番好きな表現のひとつが、「赤ちゃんが宿った」という言葉です。
これを初めて聞いたのは、親友からのLINEでした。
「ねぇ、なんかね、赤ちゃんが私の中に宿った気がするの」たったそれだけの言葉なのに、そのメッセージを読んだ瞬間、なぜか涙が出ました。
「宿る」って、命がふと舞い降りてきたような、ちいさな灯りが心にぽっとともるような響きがあって、本当にあたたかいんですよね。
押しつけがましくなくて、でも強く心に残る。
そんな言葉だと思います。
「子を授かる」──感謝と謙虚さがにじむ言い方
「授かる」という表現には、自然から、あるいは神さまから命を“いただいた”という、深い感謝の気持ちが込められています。
私自身、妊娠したとき、「子を授かったんだな」と思った瞬間、なんだかすごく胸が熱くなりました。
望んだ通りにうまくいかないこともたくさんあって、それでも来てくれた命。
それはまさに“授かりもの”であり、当たり前じゃない存在なのだと実感させられたからです。
とくに親しい人や、少しフォーマルなシーンでも使いやすい、やさしくて丁寧な表現だと思います。
「懐妊」「身重」──時代を超えて残る美しい日本語
「懐妊しました」という言い方は、少しかしこまった印象がありますが、上司や目上の人に報告するときなどにはとても品があり、誤解なく伝わります。
また、「身重になってきたね」という表現は、お腹が大きくなってきた妊婦さんを労わるような響きがあって、特に年配の方との会話では自然に受け入れられることも多いです。
こういう古くからある日本語には、どこかに“命を尊ぶまなざし”が宿っていて、それが聞く人の心にやさしく届くんですよね。
自分の気持ちにぴったりくる言葉を、選んでいい
どの表現を使うかに、正解はありません。
「妊娠しました」と伝える日もあれば、「赤ちゃんがきてくれたみたい」とそっとつぶやきたい日もある。
「今日はまだ誰にも言えないけど、なんとなく感じている」そんなときに、
「宿った」
「授かった」
「身篭った」
という言葉がそばにいてくれると、自分の心と命の間に、あたたかいつながりが生まれる気がします。
言葉って、ただの説明じゃなくて、気持ちを運ぶ舟みたいなものだから。
自分にとっていちばん心が落ち着く言葉を選ぶこと。
それが、命と向き合う上で、何より大切なことなんじゃないかなって私は思います。
英語で「身篭る」を伝えるとしたら?ニュアンスの違いに目を向けてみる
“I’m pregnant.” はもっとも一般的で正確な表現
英語で「妊娠している」と伝えるとき、いちばんよく使われるのは “I’m pregnant.” というフレーズです。
これは病院や書類、報道などの場でも使われる、最もオフィシャルで明確な表現。
たとえば「I found out I’m pregnant.(妊娠していることがわかった)」のように使うと、医師からの診断があったことや、客観的な事実として妊娠を伝えたいときにぴったりです。
ただ、そのぶん少し事務的にも聞こえてしまうことがあり、まだ気持ちが追いついていないときや、誰かにやわらかく伝えたいときには、もう少し感情の余白を含んだ表現が合うこともあります。
“We’re expecting.” には未来への希望がにじむ
“expecting” は、妊娠をやさしく、希望を込めて伝える表現です。
“We’re expecting a baby.” というふうに、「赤ちゃんが来るのを心待ちにしている」というニュアンスがあり、日本語でいう
「赤ちゃんを授かっています」
「赤ちゃんを迎える準備をしています」
というような感覚に近いです。
私自身も、海外の友人に報告するときには “expecting” を使いました。
その言葉を選んだ瞬間、なんだかふわっと気持ちがほぐれたのを覚えています。
「これは命のスタートだけじゃなく、これから一緒に育んでいく未来の始まりなんだ」そう思わせてくれる言葉でした。
“Having a baby.” は親しみやすくカジュアル
もう少しカジュアルに伝えたいときは、“I’m having a baby.” という表現が使えます。
これは「赤ちゃんができたの」「来年ママになるんだよ」といった、日常の中での軽やかな報告にぴったりの言い方。
家族や親しい友人に話すときに自然に使える、とてもあたたかい言葉です。
日本語の「赤ちゃんができたよ」や「お腹にいるみたい」といった表現に近く、ややフランクだけど、そのぶん距離の近い人との会話ではとても心地よく響きます。
“Knocked up.” は注意が必要なスラング表現
少し注意したいのが “knocked up” というスラング。
これは映画のタイトルにもなったくらい有名ですが、
「できちゃった」
「予期せぬ妊娠」
といった、軽さや皮肉を含む意味合いがあるので、使う相手やシチュエーションには気をつけた方がよい言葉です。
特にフォーマルな場や慎重なやりとりでは避けるのが無難です。
文化の違いと言葉の背景を知ることの大切さ
英語圏では、妊娠に対する表現がストレートな分、「事実をどう伝えるか」が重視されることが多いです。
それに比べて日本語は、命を迎える感情や祈りのような想いを“言葉に込める”文化があります。
「身篭る」や「授かる」といった表現は、命の重みや神秘性をそっと包み込む、日本語独特の繊細さを感じさせます。
それぞれの文化や言葉が大切にしているものは違っても、根底にあるのは「命を大切に思う気持ち」。
だからこそ、伝えるときにはただ直訳するのではなく、自分の気持ちや伝えたい空気に合わせて言葉を選んでいくことが、思いやりの一歩なのかもしれません。
「身篭る」という言葉が、これからもそばにあってほしい理由
正確さや便利さでは測れない“言葉のぬくもり”
今の時代、私たちは日々、便利さやスピード、正確さを大切にして暮らしています。
たとえば妊娠だって、検査薬ですぐに反応がわかるし、病院では週数や胎児の状態をきちんと診てもらえる。
とても心強いことです。
でもその一方で、「心がどう感じているか」や「まだ言葉にならない想い」に寄り添う時間が、少しずつ減ってきている気がするんです。
「妊娠しました」と言えばそれで十分なのかもしれないけれど、「身篭る」という言葉には、もっと奥の部分
心の震えや、命を抱きしめる決意のようなものが、そっと込められているような気がします。
古くても、あたたかい言葉はなくならないでほしい
「身篭るって、もう古い言葉だよね」と言われることもあります。
たしかに、今ではニュースでも書類でも、聞くのはもっぱら「妊娠」という言葉ばかり。
それでも私は、この「身篭る」という表現が、これからもそばにあり続けてほしいと心から思っています。
理由はすごくシンプルで、この言葉には“命と向き合うときの静けさ”があるから。
それはたとえば、ひとりで夜を過ごしているときにふと芽生える気づきだったり、言葉にならない涙がこぼれたときにそっと寄り添ってくれるような、そんな言葉の温度。
どんなに医学が進んでも、テクノロジーが発達しても、人の心の中にある“命を抱く感覚”は変わらない。
だからこそ、それをすくい上げてくれる表現も、大切に残していきたいんです。
自分の心を支える、ひとつの“内なる言葉”として
この言葉を誰かに伝えるかどうかは、実はそんなに大事じゃないのかもしれません。
むしろ、「私はいま、命を身篭っているんだ」と、自分の心の中でだけ静かに言葉にしてみる。
その一言が、自分自身を優しく支えてくれることってあると思うんです。
不安や戸惑い、未来への期待や小さな怖さ。
そのすべてをまるごと抱きしめるような気持ちになったとき、「妊娠した」よりも「身篭った」と言ってみたくなる日がある。
それって、言葉が“現実を記録するため”じゃなくて、“心を感じるため”にあるんだと気づかせてくれる瞬間なんですよね。
命に向き合う言葉は、人それぞれであっていい
妊娠にまつわる言葉は、ひとつじゃなくていい。
人によって、タイミングによって、気持ちによって、ぴったりくる表現は違って当然です。
「妊娠しました」とまっすぐ言える日もあれば、「宿った気がする」とそっと呟きたい日もある。
「身篭る」という言葉がその中にあって、誰かの気持ちをやわらかく包んでくれるなら、それだけでその言葉の存在価値はちゃんとあると私は思います。
まとめ:あなたの気持ちにいちばん近い言葉を選んでいい
「身篭る」という言葉には、ただ妊娠という状態を示すだけではなく、その人の心の揺れや命と向き合う静かな決意までも、そっと抱きしめてくれるような優しさがあります。
誰かに伝えるためじゃなくて、自分の気持ちを整理するために、自分の中だけで「私はいま、身篭っているのかもしれない」と言ってみる。
その一言が、なんとも言えない安心やあたたかさを運んできてくれることってあるんですよね。
医療的な確認が大切なのはもちろんだけど、それと同じくらい、自分の感情を大切にしてあげることも必要です。
言葉には、それを選んだ人の人生がにじみ出ます。
妊娠という出来事にどんな言葉を添えるか、それは「自分がどんなふうに命と向き合っているか」の表れでもあるんです。
だから、どの言葉が正しいかではなく、どの言葉が“いまの自分”に一番やさしく寄り添ってくれるのか。
それを感じて、選んで、受け止めていくこと。
それが何よりも大切なんじゃないかなと思います。
あなたにとって、「妊娠を伝える言葉」が、あたたかい気持ちで満たされるものでありますように。
